1.従業員の健康と経営活動:これまでの流れと成果

2)健康づくりを巡る新たな潮流


2000年代には、職場のメンタルヘルス対策に、これまでとは異なるアプローチが生み出されました。当時、海外、特に欧州で職場のメンタルヘルスに関する知見が急速に蓄積されつつあり、その大きな流れの一つとしてポジティブなメンタルヘルスに関する動向がありました。例えば、英国国立医療技術評価機構(NICE)が2009年に公表した職場のメンタルヘルスのガイドラインでは、労働者のポジティブなメンタルヘルスを目標とすべきであるとしています[1]。また、従業員のポジティブな仕事への関わりについて注目した研究の蓄積もなされてきました。その代表がワーク・エンゲイジメントです。


ワーク・エンゲイジメントは、「仕事に誇りとやりがいを持ち」(熱意)、「仕事に熱心に取り組みエネルギーを注ぎ」(没頭)、「仕事から活力を得ていきいきしている」(活力)状態として定義されています。ワーク・エンゲイジメントの対概念としては、バーン・アウトが挙げられます。バーン・アウトが、疲弊し仕事への熱意が低下している状態であるのに対し、ワーク・エンゲイジメントは活力にあふれ、仕事にも熱心に関わるとされています。



図表2:仕事の要求度・資源モデルとワーク・エンゲイジメント
出典・慶應義塾大学島津明人教授スライドより

これに関連するモデルとして、「仕事の要求度・資源モデル」があります。従来は、仕事の要求度(仕事のストレス要因)を低減させることでストレス反応(バーン・アウト)への対策を取るというアプローチがなされてきました。それに対して、仕事の要求度を低減させると同時に、作業・課題、部署、事業場の各レベルの仕事の資源を向上させることが、ストレス反応の低減にもワーク・エンゲイジメントの向上にも効果を持ち、最終的に従業員のウェルビーイングにも寄与することが明らかになりました[2]。

これにより、ワーク・エンゲイジメント向上のような、よりポジティブなアプローチが職場のメンタルヘルス対策の中でも有効なものとして位置付けられるようになり、職場のメンタルヘルスの目標を、疾病対策にとどまらず従業員のやる気や活気の促進にまで拡大することにつながりました。

また、産業界においても、この時期に従業員の健康づくりに対する関心が高まってきました。その背景には、少子高齢化の進展による生産年齢人口の減少に伴い、現役世代の健康を増進し、その活力を向上させるとともに、高齢者も含めて健康寿命を延伸させることで生産性向上を図ることが、これまで以上に本邦全体にとっても重要な意味を持つようになったというマクロ面での変化があります。これは、企業において、従業員の健康保持・増進に経営として取り組むことは、従業員の活力向上や生産性の向上等の組織の活性化をもたらし、結果的に業績向上や企業・組織としての価値向上へ繋がり、収益面やブランディング、人材確保等にもプラスの影響をもたらすことが期待されるとして、「健康経営」
[3]と位置付けられました。

 


図表3:健康経営概念図
出典・経済産業省ヘルスケア産業課「健康経営の推進について」(令和3年10月)


このような中、経済産業省は健康経営に係る各種顕彰制度として、2014年度からは「健康経営銘柄」の選定、2016年度からは「健康経営優良法人認定制度」を創設しました。これらは、健康経営に取り組む優良な法人を「見える化」することで、従業員や求職者、関係企業や金融機関等から、従業員の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に取り組んでいる企業として社会的に評価を受けることができる環境を整備することを目指しており、申請法人の数も増加しています[4]。また、これに関連して、日本政策投資銀行では、従業員の健康や働き方への配慮に関する取り組みに優れた企業を評価・選定する「健康経営格付」の手法を活用した健康経営格付融資を導入する等、投資分野での認知も進みつつあります[5]。

その過程で注目を集めるようになった概念として、「アブセンティーズム」「プレゼンティーズム」があります。前者は、心身の体調不良が原因による遅刻や早退、就労が困難な欠勤、休職等、業務自体が行えない状態を指し、後者は、出勤はしているものの、心身の健康上の問題が作用して、パフォーマンスが上がらない状態のことを指します。いずれも健康問題がもたらす損失として、健康経営における重要な概念であると位置付けられるようになりました。

特に、プレゼンティーズムにおいては、一見目につきにくいもののパフォーマンスが上がらない要因の一つとして、メンタルヘルスの観点、その背景にある職場環境からの考察もなされるようになりました。そして、健康経営の文脈においても、メンタルヘルスを規定する要件として、欠勤や休職といった従来型の項目にとどまらず、職場やマネジメントのあり方、その延長線でよりポジティブな要素が重視されるようになってきました。そのことは、例えば健康経営への企業の取り組みを評価する際の「健康経営度調査」において、アブセンティーズム、プレゼンティーズムとともに、ワーク・エンゲイジメントが成果指標の一つとして規定され、その定期的な測定が回答項目に取り上げられるようになったことにも表れています
[6]


 

図表4:健康いきいき職場づくり概念図


このように、従業員の心身の健康状態や職場環境を良好にすることへの新しいアプローチへの機運が、理論・実践の両面において近年高まってきました。これらの動きと並行して、メンタルヘルス面を起点に推進する方法論として、2012年に日本型ポジティブメンタルヘルスの標準理論として「働く人の健康」「働く人のいきいき」「職場の一体感」の三つを重視する形で、「健康いきいき職場づくり」が提唱され、その推進のためのプラットフォームとして「健康いきいき職場づくりフォーラム」が設立され、上記の動きに影響を与えてきました。

「健康いきいき職場づくり」は、特定の取り組みを指すのではなく、「企業・組織と従業員がともに健康で、いきいきと活動し、お互いに成長する、理想的なあり方を実現するための取り組み」として定義しています。この取り組みの最大の意義は、「健康」というものを幅広く捉え、職場環境やマネジメント、働き方の充実が企業やそこで働く人の成長に資すること、そしてそこに健康管理部門だけではなく、人事、労働組合等多様なステークホルダーを交えつつ、経営として関与することが有意義であることを、社会や産業現場に浸透させるきっかけをもたらした点にあると考えられます。

「健康いきいき職場づくり」の方法論は多岐にわたりますが、大きな特徴としては、「できていないこと」に焦点を合わせるギャップ・アプローチではなく、「できていること」に着目するポジティブ・アプローチを重視している点と、従業員の参画を重視している点が挙げられます。メンバーが当事者として関与することや、その際に強みを伸ばすことを重視する従業員参加型ワークショップは、その典型例と言えます
[7]。従業員参加型ワークショップでは、職場の当事者であるメンバー自身が自職場のポジティブな側面に着目しつつ、「ありたい姿」を自ら考え、具体的な行動計画を練り、それを実践することで、職場への参画意識を高め、職場の一体感やワーク・エンゲイジメントの向上を目指します。

実践事例としては、例えばA社では従来健康経営として取り組んできた、個人を対象としたフィジカル面のセルフケアを中心とした予防活動や高リスク者への介入に、健康いきいき職場づくりの要素を勘案した職場でのラインケアや従業員参加型ワークショップを組み合わせて、健康経営の活動をバージョンアップさせていきました。また、B社ではそのような活動を労使で取り組み、職場改善活動を「楽しく」「みんなが参加できる」形に変えていきました。そのほかに、C社ではストレスチェックの集団分析結果について、従業員満足度調査と連動させ、弱みだけではなく強みに着目することで、職場ごとの活性化施策の策定に活用していきました。このように、ポジティブな視点を中心にアプローチすることで広範な参画につなげるという「健康いきいき職場づくり」のエッセンスを活かした、さまざまな活動が行われるようになりました。

これまで概観したように、職場のメンタルヘルスに関連した取り組みは、2000年代以降、さまざまな形での蓄積がなされてきました。特に近年、「健康いきいき職場づくり」や健康経営に象徴されるように、職場やマネジメント、働き方にも留意した形で視野を拡大することで、従来の職場のメンタルヘルス対策を補完し、さらに従業員の心身の健康の保持・増進が企業価値、企業の持続可能性の向上という形で経営につながるものとして捉える、新しい潮流が生み出されてきたと言えます。そして、現在、内外の環境変化がさらに新たな動きをもたらしつつあります。



[1] 「『健康いきいき職場づくり』フォーラムの設立趣意書」より。

https://www.ikiiki-wp.jp/tabid/68/Default.aspx

[2] 島津明人著『ワーク・エンゲイジメント ポジティブメンタルヘルスで活力ある毎日を』(2014 労働調査会)参照。なお、「ウェルビーイング」については後述(p20)。

[3] 経済産業省では、健康経営を「従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践することです。企業理念に基づき、従業員等への健康投資を行うことは、従業員の活力向上や生産性の向上等の組織の活性化をもたらし、結果的に業績向上や株価向上につながると期待されます。」として定義。概要は同省健康経営サイトを参照。https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/kenko_keiei.html

[4] 申請実績に関しては脚注16のサイトを参照。

[5] 同行の健康経営格付融資については以下を参照。https://www.dbj-sustainability-rating.jp/health/

[6] 健康経営度調査の位置づけ及び調査票については以下を参照。https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/healthcare/kenkoukeieido-chousa.html

[7] 従業員参加型ワークショップについては前掲『健康いきいき職場づくり』第6章参照。

 

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